現在はエレクトリック楽器や音響機器の発達により、アリーナクラスの会場でも素晴らしいサウンドでコンサートが楽しめる時代である。
しかし、エレキ・ギターが誕生してまだ100年も経っていない。
それまでは全てがアコースティック楽器であり、当時数百人の会場で演奏できる楽器を製作することは、楽器製作家、音楽家達の夢でもあった。

1833年から弦楽器を生産していたマーティン社は、アコースティックのみを製作していた時代の方が圧倒的に長いが、マーティンⅠ世が製作を開始した当時は全てガット弦で、今でいうクラシック・ギターである。
ギターが様々に進化する中で、1世はネックの角度が調整できるモデルや、当時人気のあったヨハン・ゲオルク・シュタウハファー・スタイル(フェンダーのようにチューナーが左側に6連セットされたデザイン)など、ギター作りに様々なアプローチを行う中で、マーティン最大の特徴ともいえるXブレイシングを考案した。

ギブソン社が設立されたのはマーティンより約70年後となる1902年。
ギブソンでは当初からマンドリンを製作していたこともあり、スタイルOやハープ・ギターのスタイルUなどスティール弦のモデルの開発に積極的だった。
それに対して、マーティン・ブランドにスティール弦が採用されるようになったのは、ギブソンより20年近く後の1920年代初頭のことだ。
1900年代初頭はギターの多くがマーティン社と同じガット弦を使用していたが、マーティンではスティール弦ギターの可能性を考え、1920年代後半にほとんどのモデルをガット弦からスティール弦に切り替えていった。
当時は空前のハワイアンブームで、より大きなサウンドが出せるハワイアン・ギターがいくつかのメーカーから発売されるようになったが、スティール弦は大きなサウンドを出すのには最適で、また以前マーティン社が採用していたXブレイシングとスティール弦の相性も抜群に良かったことで、マーティン社の製品はギタリストに高く評価されていった。

スティール弦の使用は、さらに多きなボディの採用も可能にした。
マーティン社ではオリヴァー・ディットソン社のOEMとして1916年にそれまでの最大ボディである000を大幅に越えるドレッドノート・モデルを製造するようになった。
ディットソンのOEMモデルは31年に完了したが、その後自社ブランド名義でドレッドノートモデルを生産し、D-18、D-28といった大型モデルが新たな音楽シーンの中で使用されるようになっていった。
当初は、特別に大きかったドレッドノート・モデルだがいつしかスタンダードなモデルとなり、多くのギターブランドがマーティン製品を追従することで、ドレッドノートは標準的なモデルとして世界中で愛用されるようになった。

エレクトリック・ギターもPAの無かった時代に、音量の大きな楽器を製作することは多くの人達の夢だった。そんな時代の中で、少しでも大きなサウンドが出るギターを開発しようとした先人達のアイディアと努力が、現在のアコースティック・ギターの発展に大きく寄与したことはいうまでもない。